TRUMPシリーズ最新作、グランギニョルを見てきました。
grandguignol.westage.jp
見たのは東京公演2回(8/5昼夜)、大阪公演1回(8/19昼)です。とても面白かったです。なお、観劇前に予習として見たものは、TRUMP(Dステ版)、リリウム、スペクターです。TRUMP2015年版も見たは見たのですが、時間がなかったため、あまりちゃんとは見てないです。そういう人間の感想であることをご留意いただければと思います。
※以下、TRUMPシリーズのネタバレを容赦なくします。お気をつけください。
まだTRUMPもリリウムもスペクターもご覧になってない方は、この文章を読まずに、先にそちらを見ることを強く勧めます。
まず一回目に見た感想としては、なんかすごいけどよくわかんないところ結構あるなあ……でした。一つの舞台に、いろいろな視点からの物語を詰め込んでいて、情報量がとても多い!
語られる物語の軸としても、
- ダリ・デリコとゲルハルト・フラの関係性
- デリコ家の物語
- フラ家の物語
- 血盟議会の政治的対立
- ギルドの物語
- ダミアン・ストーンの物語
- ゲルハルトの研究についての物語(繭期の三人の少年少女にまつわる物語)
と、大量の登場人物全てに関して、バックグラウンドが語られると言っても過言ではなく。更にそれぞれが過去作とリンクしていたりするので、どの切り口で語るかで感想が大きく変わるんじゃないかと。情報量が多くて疲れちゃうところもあるんですが、色々と考察したり推測したりする楽しみもそのぶん多い舞台でした。
このアホみたいに多い情報のせいで、若干説明過剰になりがちなのですが、そこをうんざりさせないのが、凄まじい量の殺陣シーンです。話の半分が殺陣なんじゃないかって量です。とにかく皆、殺陣がうまくて、少年漫画の格闘シーンを見ているようなわくわく感があります。
主演二人はもちろん、他の俳優たちも二時間半の舞台の間中ずっと走り回り、飛び、くるくると刀を振り回しながら回転し……。一瞬気を抜いたりタイミングを間違えたら大怪我に繋がりかねないような殺陣が、次から次へとバンバン出てくるんですよ。
特にすごかったのが、ダミアン・ストーン役の日南田顕久さん。刀をくるくると美しく回しながら、ブレイクダンスのようなアクロバティックな動きもしてみせる、その身体能力の高さに驚愕しました。最後のダミアンVSダリのシーンでは、走りながら段差を飛び降り、着地してすぐにまた姿勢を崩さず走るという、空でも飛べそうなことをしていました。ハイロー出てほしいです。ハイロー。
この、成人男性にも非常に大変だろう殺陣シーンを、唯一の十代女性である田村めいめいことキキ・ワトソンが見事に演じているのを見て、それにも驚きました。残念ながら、東京公演千秋楽では熱が出てしまったみたいですが、それもある意味仕方ないというか……。
あと、TRUMPシリーズの特徴(というか末満作品の特徴?)でもあるギャグも健在でした。複数回見ると、このギャグシーンが変わっているのがわかってなかなか楽しいですし、役者さんに親近感が湧いてくると、更に楽しいんじゃないかと思います。
過去作と違ってガチシリアスシーンから急にギャグシーンになって、感情が追いつかないってこともなかったように思います。ギャグシーンは基本的に前半に集中していたので。
実は、個人的に、末満さんのギャグシーンがあまり好きではないのです。こんなことを言っておいて急に何だという感じですが。
理由として全員が全員ボケるというところがあります。多分皆に見せ場を作りたい優しい気持ちから来てるんでしょうけど、全員がちょくちょくボケるので、なんだかとっ散らかった印象を受けてしまうというか……。今回の舞台も、歌麿とジャック・ブレアぐらいをボケ役にして、他の人のボケを大胆に削るくらいのほうが好みですかね。
それと、歌麿と李春林の、歌麿を犬扱いするコント、なんか間が悪くてうーん、となりました。李春林役の東さんが、師匠感を出すために少しもったいぶって話すので、間が悪くなるのかも。なんだかもっとパキパキやってくんないかなあと思ってしまいました。いやまあ皆さんお笑い芸人じゃないんで、要求としては的外れだってわかってますけど。
今回、舞台を通して見て思ったのは、これは「家父長制と、眠れる奴隷の物語」なのでは?ということでした。さっき、パンフレットの末満さんのコメント見たんですが、この舞台は末満さん曰く、「呪い」と「信仰」の物語だそうで、そんなに外した感想じゃないんじゃないかと思います。
今回の「グランギニョル」は過去作の「スペクター」とほぼ同時期、つまり「TRUMP」より前の物語です。つまり、この作品でダリとゲルハルトは必死に足掻きますが、結局ダリの息子のラファエロは死に、ウルは死の恐怖から逃れられずに死に、そしてアンジェリコは繭期の症状が悪化した上で死ぬ。そういう結末が待っていることを、既に観客は知った状態で見ることを期待されている作品なわけです。彼らが舞台上でいかに努力しても、遠い未来の結末は既に決まっている。
コレを見て思い出したのは、ジョジョ五部の「眠れる奴隷」のエピソードと、ヴォネガットの「タイタンの妖女」でした。どちらも既に定められた運命に対して、あがく人々の物語です。既に結末は決まっているのだから、逆らっても無駄というわけではなく、何をするか?その苦難に対してどう行動するかが重要なのだという物語でした。
今回も、そういった「呪い」にあがきながら、どう生きていくのか?ということを問うている舞台なのかなと。
また、末満さんが舞台パンフレットのコメントで上げている「呪い」の中に「世襲」というものがありましたが、主人公二人とそしてその妻二人はこの「世襲」と言うものに苦しめられているなあと。
わかりやすいのはゲルハルトで、フラ家というものにとらわれているわけです。彼はフラ家を守り、フラ家を守ることが妻のマリアを守ることだと思っていて、そのために己の性的不能をひた隠し、マリアにわざと浮気させてよその男と子供を作らせるのですが、その結果マリアを病ませ、自殺へと追い込んでしまうわけで。
一方、ダリはそこまでではなく自由に生きているように見えますけど、デリコ家の者として見られることにウンザリしているようなセリフがあったり、また今回のグランギニョルの発端が彼がデリコ家の人間であることだったりするので、やはり彼もまた家にとらわれている吸血種なわけです。
しかし、ゲルハルトとダリは、彼らがその「家」の吸血種、つまり貴族であり、貴族である自分たちはノブレス・オブリージュを持つと考えているがために、吸血種(そして人間)社会に対して責任感を持ち、この事件を解決しようと足掻き行動するわけでもあります。
家という「呪い」は彼らを縛る鎖であり、また彼らの行動の原動力なのだなあと。
個人的にはただただ辛いのはダリの妻フリーダと、ゲルハルトの妻マリアです。この二人が典型的な家父長制下の女性キャラクターという感じで……。フリーダは強い女性で、夫の浮気の疑いに心をかき乱されながらも、スー・オールセンを前にして「生まれてこなかった方が良い子供なんていない」と言ったり、スーの子がもし夫、ダリの子ならばわたしの子供でもある、と言い切ったりするわけです。
なんか、昔の本妻さんが、お妾さんの面倒見るような感じだなあと思いました。つまり一人の女性である前に、「家」の一員なんですよね。精神的に強いがゆえに家父長制に適応しきった女性だなと。もっと怒っていいだろ、悲しんでもいいでしょと現代人であるわたしは思うんですけど、フリーダは強いんですよね。ただただ。
マリアは対照的で、彼女も家父長制を守ろうと努力はするのですが、望まぬ不貞を強いられたため精神的に錯乱し、自分の子であるアンジェリコに対して「あんな子生まれなければよかったのに」「あの子を殺して」と言い放ちます。家父長制下では、特に女性は自分の意志を認められなず、家の付属品として扱われるので、多大なストレスをかけられて精神に異常をきたす女性は珍しくなかったという歴史があります。マリアもそういった女性なのでは。マリアはフリーダのコインの裏のような存在なんじゃないでしょうか。一つ間違えたら、フリーダはマリアだったかもしれないし、マリアはフリーダだったかもしれない。
一番つらいのは、フリーダもマリアも、尋常じゃない精神的ストレスを加えられながらも、彼女らが主体的に動いて物語を大きく変えていくことはできないわけで(それはダリとゲルハルトの役目)、そこが近代以前の「家」って感じがするんですよ。つらいとしか言うことができないんですよ……。この二人に関しては……。
この舞台のもう一つの要素、「信仰」ですが、まあ簡単に言えば原初信仰者ですよね。TRUMPを神とし、それを崇める宗教。
実はわたし、初回の鑑賞ではマルコ・ヴァニタスの中にいたダミアン・ストーンの目的に納得いかなかったんですよ。
TRUMPに生きていることを実感させるために、この世を残酷で満たす。まあ言わんとすることはわからないでもないですけど、でもなんか納得行かない。ずいぶん周到に計画を立ててるのに、根本の目的が地に足がついてないというか、ふんわりしてるように思えたんですよね。なんでこんな遠回しなことをするのか?と。TRUMPに直接働きかけたほうが良くないですか?なんか美味しいものでも食べさせてやれよと。
でも、2015年版TRUMPを見たり、友人の感想を聞いているうちになんとなくわかってきたような気がします。
TRUMPの側近であったダミアン・ストーンは、イニシアチブを使って自分の人格を他者にコピーして、擬似的な長寿を達成していたわけです。これまでのシリーズを見る限り、イニシアチブを取ることで相手の行動、意識、記憶をコントロールできるようなので、イニシアチブで相手にダミアンの記憶をもたせ、ダミアンの行動様式に従って行動させる、ということをやっていたのでしょう。シリーズの中でもかなり強いイニシアチブだと思います。
しかもこのイニシアチブを何代も何代も繰り返し繰り返し、何人にもやっていたわけで、相当強烈ですよ。
ココで思い出されるのが、バルラハ・ベルが言っていた、イニシアチブを二つかけた場合、その意思の力が強いほうが勝つ、ということ。つまり、イニシアチブの強さは意志の強さにある程度比例するのではないでしょうか。
相手の意思をコントロールするようなイニシアチブを、自分の死後も、何代も何代も繰り返しかける。これを生み出したダミアンは、その全てをTRUMPのためにやっているわけで、彼のTRUMPへの想いの強さって、もう「意思」ってレベルを超えて「信仰」なんじゃないでしょうか。
そうするとTRUMPでクラウスがアレンに囚われてしまう気持ちもなんかわかるんですよね。きっと彼のまわりには彼を「信仰」する人しか居なくて(だって側近ですら信仰してくるわけですし)、きっとアレンみたいになんの媚びもへつらいもなく、「永遠の命を持ってしまったら、きっとさみしいよ」なんて自分の心に寄り添った言葉を言ってくれる人なんて、誰もいなかったんだと思います。……クラウス……。つらい……。
話を元に戻すと、グランギニョルってダミアンにとっての「宗教儀式」なのかなと。彼の信仰をTRUMPへと伝える儀式。だからこそ、美しさを求めるし、あんな理不尽なことを、あそこまで用意周到に、己の全精力を傾けて行うことができたんじゃないかなと思います。
TRUMPシリーズには「我は守護者なり」というセリフが繰り返し出てきますよね。
でもこのセリフを言っている人たちって、その守る相手を心から思って守ろうとしているという側面もあると思うんですが、相手のことを思っているというよりも、どっちかというと相手に執着する己の心を守りたいだけなんじゃないか、と思わせるところがあります。
例えば、TRUMPのラファエロは、ウルを守ろうとしている一方で、ウルを守れる自分に執着しているんじゃないかと。ウルを守れ、という父親からの期待を守れる自分であろうとしているんじゃないか。
リリウムの紫蘭はギムナジウムを守ると言いながらも、ギムナジウムを失うことで永遠の命を手放すことへの不安が先に来ているように思います。
スペクターではシャド。ローザへの献身のあまり、ローザの暴走を止めることができないわけです。
グランギニョルではゲルハルトがフラ家とマリアを守ると言っていますけど、これは一方で父親からの呪縛から、フラ家を守れる自分に執着しているようにも思えます。
もし、ダミアンの物語があったとしたら、ダミアンはきっと、クラウスに対して「我は守護者なり」って言ってるんじゃないかなあと思うわけです。ダミアンはクラウスを守ってるつもりで、クラウスを守れる自分に酔ってるのかもしれないですね。(正直、クラウスは別にグランギニョルなんて望んでなさそう)「我は守護者なり」は相手への信仰告白なのかも。
あと、どうでもいい話を少し。
・ゲルハルトはダリの守護者?
さっきゲルハルトはフラ家とマリアの守護者である、と言いましたけど、物語を見ているとゲルハルトはダリを守る役割も持っているように思います。
ダリは、繭期の症状でフリーダを殺すシーンを幻視するわけですけど、これが成就しなかったのは、代わりにゲルハルトが請け負ったからなのではと思わせる展開でした。フリーダが殺される、という運命を変えることはできなかったけど、ゲルハルトは自分の意志で、ダリに自ら手を下させるのではなく、自分が代わりに罪をかぶることを選んだわけです。そうすることで、彼はダリの心が殺されてしまうことを防いだんじゃないでしょうか?
この舞台のテーマである「呪い」から解き放たれることは難しいけれど、でも呪いの結末までの道筋を変えることはできるし、そうすることできっと何かを未来に残すことができる、ということを表しているシーンなんじゃないかと思います。
・ウルとダミアンコピー
ウルはスーを助けたシーンで消失していると思うのですが、それまではどの程度意識が残っていたんですかね?
緑髪のダミアン・ストーンは、ゲハルトに「君はイニシアチブの可能性なんだ」と言われた時に少しの抵抗を見せていますけど、これはダミアン・ストーンに乗っ取られる前の誰かによる僅かな抵抗なんでしょうか。そうなると、ダミアン・ストーンたちの中には、元の吸血種たちの意思が僅かに存在しているんじゃないかと思います。ただ、その意思が表に出てくることはほぼ無いのでしょう。
マルコの中に僅かに残っていたウルの意思から、ダミアン・ストーンはグランギニョルの主役をクロード・デリコの息子、ダリ・デリコに選び、計画を実行したわけですよね。原案はウル、脚本・演出ダミアン・ストーン、というセリフからもそれが伺えます。
で、そこで個人的に気になっているのは、マリアを愛したのは一体、ダミアンなのか?ウルなのか?どちらなのか?ということです。
その後の発言から考えて、マリアとマルコの不貞は、完全にダミアン・ストーンの計画外の出来事ですよね?彼のグランギニョルの計画には、ゲルハルト・フラの存在は入っていなかった。
ということは、もしかしてマリアと関係を持ったことは、完全にダミアンの自由意志の結果だったりしませんかね?だったら面白いんですけど。……その後マリアがダミアンの正体に関する遺書を書き残したことからしても、無さそうですかね。ここらへんの経緯が明らかにされる日は来るのでしょうか。
ほんと、この舞台、アホみたいに情報量多いなあ。
・マリーゴールドとキキ・ワトソン
オズの予知で関連を指摘された、マリーゴールドとキキ。キキは繭期の症状で目に入るものすべてを愛してましたけど、すべてを愛しているって結局のところ誰も愛してないのと同じですよ。
一方、マリーゴールドはたった一人を狂ったように愛したわけで。この二人も対照的な二人ですね。
・黒幕は転びながらやってくる
これ、末満さんの演出の癖なのか、それともなにか深い意味があるのか……。
クラウスも、ファルスも、そしてマルコ・ヴァニタスも舞台に転びながら転がり込んできました。
わざとであることを悟られないように割り込むときは、転びながら入るということが決まっているのか、それとも長く生きる(長く生きた記憶があると)脚に来るのかどっちなのか。